昭和51年09月10日 月次祭



 今朝の御理解に「生神への道」と、お道の信心をさせて頂く者は、もう全て皆んなが生神を目指す、生神への道へ出てそれを辿らせて頂くというのが、金光様の御信心であります。今日の芯になりました事は、頂くと言う事頂こうと言う事。頂く、頂こうこれが合楽のこれからの合言葉になっていかなければならない。先ほど池田先生がお話を致しておりましたように、ここ2、3日の御理解を頂いておると。
 本当にあぁさせて頂きますこうさせて頂きますと、言うてはおるけれども、その本当の頂きますになっていなかった事に、まぁ愕然としております。頂くというからには頂くのですから、その答えには有り難うございます。どんなに考えてもしみじみ有り難うなるというものが、なからなければなりません。おかげを頂くというても、自分に都合のよい言だけがおかげではない。都合の悪い事の中にも、有り難いお徳の受けられる基があったり、力を受けるおかげがあったり致しますのですから。
 やはり「頂く」という心でまいりませんと、答えに有り難いという答えになって出てこない。そうするならそれはもう口では「おかげ頂きました」とこう言うけれども、おかげ頂いた言にはならない。だからおかげを頂くというその言葉の中に、本当に有り難いという答えが出ておるかどうかと言う事を確かめながら、そしてしら真剣頂く姿勢を作る。どういう場合であっても頂く、頂きましょうやという合言葉を持って進む。
 佐賀に善隣会という新興宗教が、大変ご比礼を頂いておられるそうです。そこではどういう意味かは分かりませんけれども、全部こう会合があったその後には、みんなが片手をあげてね「先生ハイハイハイハイ」という案内をふるっちゃないだろうかと、まぁ想像するんです。「あげますあげます、あげますあげます」というそうですね。何をあげるのか分からんけれども、やっぱり捧げるというような意味じゃないでしょうかね。もうそれも熱狂的にですねそのやるそうです。
 合楽の場合はねそんなに気違え自慢でもよいから、とにかく「頂き、頂きます」という言葉がです、夫婦の中にも親子の中にも、信者同士の中にもそれが段々広がっていくところに、いよいよ信心の安定と言う事になって来るんだと思います。今朝から桜井先生がお夢を頂かれたというお届けをなさいました。誰からかこうリヤカーに乗せてずっと連れてってもらいよる、自分はリヤカー中に乗っとる。それを2人でこうやって押すそのリヤカーだそうです。
 で段々段々行ってところが途中から捨てられっしもうた。とうとうリヤカーから降りてそこには川がある。いろんな障害物があるそれを、もうそれこそやっとの思いで乗り切って乗り越えた、その向こうに大きな岩がある、その岩の向こうにそれこそ、こんな大きな亀がこうやってそのおる所で目が覚めたというのです。大体桜井先生をご承知の方ならば、意味が分かるだろうと思うですね。
 今日私は御神前で、今日は皆さんにどげな話を聞いて頂こうかと思わせて頂いたら、大盛り台にお素麺が一箱、あれは四国か、神崎辺りから来たのでじゃないでしょうか。その素麺のマークが「きっこう神」と書いてある。きっこうのマークの中に、神様の神という字が入っておる。ははぁ私はすぐそれを思いました。はぁ今朝から桜井先生がお届けをされた。そう言う様な事を聞いて頂くんだなぁ、と言う風にだからそういう風なお話になっていくと思います。
 亀の背中に乗って、浦島太郎が竜宮城へ参りました。もうそれこそ絵にも書けない美しさ、もう毎日毎日が素晴らしい。合楽の言葉でいうならば、真善美の世界にとはこういう言だろうかと言う様な世界で、もう日にちの経つのも忘れるような状態で過させて頂いてね、夢のような生活である。それからもうずい分日にちも経ったからと思うて、帰る事を乙姫様に申しますと、乙姫様がね「そんならばお土産に」というて、玉手箱を下さったというのです。
 そして自分の郷里へ帰りますと、もう何もかにもが変わってしまっておる。暫くだと思うておったのが、もう何十年もあちらにおった事になった。そんなにもう夢のような生活をしてきてそして知った者もおらない、知った所もないと言う様なところでね、乙姫様が言うことも忘れて玉手箱を開けたら、中から白い煙が立ち昇るかと思うたら、真っ白のしわの寄ったお爺さんになったというお話なんです。
 私は昔からここで言われておりますように、親先生任せ「ついて来なされこの提灯に、決して苦労はさせはせん」と、もう親先生任せになると言う事がです、もうこれは30年も前から言い続けられております。それはどう言う言かというと、亀の背中に乗ると言う言である。もう竜宮は絶対だというのです、おかげの世界は絶対なのだと、そこのところを親先生任せと言う事になります。
 ただ背中の背中に乗っておればね、楽と言う言ではない。たまには波がこう高い時もあるだろう、もうそれこそ振りちぎられるような思いをする様な事もあるだろう。けれども私は思うのに、桜井先生じゃないけれども、途中でポンと捨てると言った様な言だけは絶対ないと思う、自分から離れていかない限り。そしてようやく言うならば桜井先生は亀との出会いになられた訳ですけれども、皆さんの場合もいうならその亀との出会いがね、皆さんの信心の要ともなっていき。
 そこから神様にお喜び頂けるというか、自分も喜べるというかね。この頃富永先生が見えて、初めて教師会神愛会で話されましたが、合楽で示現活動に参画すると言う事が、意味が本当の意味で分からなかったが、もう分かれば分かるほど、合楽示現と言う事の素晴らしさに、もう驚いてしまっておる。親先生が和賀心時代を世界に敷くとか、創るとかと言うておられるが、確かにそういう道が開けてくるだろうと。仏教でいう極楽のもう一つ向こうにあるのが、合楽だと言われるね。
 だから今日のお話を聞いて頂いておってです、竜宮城へ行ったところが私は極楽だと思うです。その竜宮城のもう一つ向こうがです、私は合楽の世界だと思います。ですからその合楽の世界に入って、いよいよお徳を受けると言う事になるのでしょうけれども、人間喉元通れば熱さ忘れるでね、それこそ乙姫様の言うた事も忘れてしもうて蓋を取ってしまう。これだけは絶対と言う事を忘れてしもうて、蓋を開けて元の木阿弥になってしまわなきゃならんと言う様な事では、折角の合楽理念を頂いた値打ちがない。
 極楽行きは絶対だ、だからそこの極楽から向こうの合楽、いうならば神様と楽しみ合えれる、神様も喜んで下さる、氏子も喜べれれる、拝みおうていけれる、界というのが、私は竜宮城の向こうに、もう一つある。それをです私共がね、亀の背中にある時に、しっかり性根の中に叩き込んでおかなければならんと、言う事であります。そこでその内容となるもの、先日からある人のお届けがあった。そしたらこの草冠に田の字を頂いた。苗と読むですね。
 合楽に御神縁を頂いて何ヶ月間、時々ではあるけれどもお参りさせて頂いておる内に、合楽のお話が身に付いてきた、成程こういう生き方があったかと、初めて分からせて頂いた。お参りをする度に、心の憂さを合楽に置いて帰える事が出来ると言う事だけども有り難い。その後には必ずおかげになっていく、その後には必ず喜びが湧いてくる。そういうおかげを頂いておられる方であります。
 したら私がある事をお届けさせて頂きましたら、その苗という字の横に獣編を頂いた。けもの偏、どう言う事になりますかね、猫という字になりますね。ここではここではね昔から猫のお知らせを頂く時には、不浄がかかっとると言われます。久留米の初代の先生があちらの御普請の時に、ある教会から沢山のお金のお供えがあった。御三宝にそれをお供えなさると、横から猫の手が出てそれに爪をかける御心眼を頂かれた。
 それでこれは折角だけれども、不浄がかかっとるからというて、それをお返しになったという話があります。以来猫のお知らせは不浄と言います。お道でいう不浄は不浄がかかるというのはね、成就しないと言う事だと言う事でございます。ただおかげをおかげで、おかげを頂きましても、今日皆さんに聞いておりますように、極楽に行くだけではなくて、極楽のまいっちょ向こうに合楽があると分からしてもろうて、その絶対の人間の幸福の世界、神様が喜んで下さる信心共栄の世界です。
 そこへ私共も辿らせて頂く事を目指すという事がです、私は生神を目指すと言った様な、とてもとても私共が生神様に成れる筈がないと言わずに、生神を目指しての信心でなからなければならない。しかも今朝方の御理解を頂いておりますと、合楽で言われるところの生神というのは、決して雲や霞だけで立っていくとか、屁もへらんと言ったようなのが生神ではないのだと。神様都々逸を歌わせたもうと言う様な、生神様を目指しての信心だというのです。
 様々な煩悩もある、様々な欲情もある、人間ですからどこにお粗末ご無礼があるあら分りません。いわばお粗末ご無礼を続ける訳でございますけれども、今日頂きますように。頂くという心あらばさわる事なし」と、教祖様が仰るように「頂きます」「頂きましょう」という生き方でいくならばです、その人間の不調法も、神様がおかげを下さるというのです。「不浄」折角の喜びの信心の苗が、自分の心の中に浅ましい心を出したためにね、不浄になっていく不浄に終わっていくね。
 そうすると人間というものは、とても生神を目指すなどと言う事は、とんでもないお話だと言う事になりますけれども。その不浄も頂き方である、又こういう不浄を犯したと言う所にはおかげはない。それを頂きましたと言う事になる時にです、昨日私が久富さん所の宅祭りで少し頂き過ぎたずう苦しかごと頂いた。帰ってからここで神様にお礼を申させて頂いた。
 今日はもうあんまり自分の好きな物ばっかだったもんですからね、もうそれこそ横におって家内がたまがるように頂いた、もう途端にずう苦しゅうなった。と言う程しに頂けた事に対して、いわばお礼を申させて。もうお前ばっかりはそげんもうそのご無礼な言とは仰らずにね、神様が喜んで下さったように思う。ついこの頃まではもうとにかく親に子供達に腹一杯の物が食べさせられるならば、私はもう一生一碗のおかゆでもよいと、思うた時代があったからです。
 その私がですもうそれこそ、山海の珍味を、それこそ竜宮城ではないけれどもね、しかもお腹一杯に、う苦しゅうぐらいに頂けておると言う事を、神様が喜んで下さったのだろうと思うと。それこそ目頭が熱うなるような思いが致しました。頂くと言う事には、そういう食べ過ぎでも、それがおかげになっておる、血に肉になっておると言う事であります。そこでその頂くと言う事の内容をです、いよいよ分らせて、はぁ頂くといっとりますけれどもね。
 今日も昨日ある教会にご縁を頂いておる方が、大したごひれいの輝かない教会の先生で、御本部へ毎月月参りをしたいと思うけれども、仲々手元不如意でお参りがでけんと言うて嘆かれた時に、その方が聞いて「そんなら先生、御本部参拝の費用だけは、私が必ずおかげを頂く事にしましょう」というておかげを頂いてきた。ある時先生が親教会の団体参拝に参加されてお参りになるので、旅費を何時いつまでに納めねばならんというので、先生「○○さん今度の御本部参拝の費用は何時いつまでば」いといわしゃった。
 ところがそれを聞いたその方がです、もう途端に有り難くなくなった。もう自分がお供えをしよる、もう当たり前のごと思うてから、催促さっしゃるとこう思うた。そういうずっと長い間続いておりましたが、昨日こちらへお参りをさせて頂いて、その頂くということの御理解を頂いて、いかに自分が頂いたの、頂かせてもらうとの言うておるけれども、自分のは、おかげに繋がる頂き方ではなかったと、悟ったというのです。「おかげ頂きました」果たしてそれに、有り難いという答えが出ておるか。
 旅費のおかげを頂いたら、先生も喜ばれる自分も嬉しいというだけであった。先生があぁ何時いつまでと言われたら、「あぁもう当たり前ごと思うちから」と思うたら、途端に有難いものがなくなったのですから、そういう有り難いでは生神への道ではないというところに、んならこの頂くと言う事のまた難しさがある訳なんです。だから繰り返し頂きましょうを繰り返しながら、本当のものであったかどうかをです、検討しながら有り難い頂く、頂きますというね。
 家族中でもこの合言葉の元に信心を進めていくならば、生神への道は間違いない。生神様にならんでもその信心を、あの世までも持っていけるのですから、ただその事にね間違いのない焦点に向かって、一歩一歩近づいて行く事が出来ると言う事になります。先ずひとつ皆さんがね竜宮城へ着かなきゃならん。いうならば亀との出会いを本当に有り難いとも少し思わにゃいけん。そして亀の背中にしっかりしがみ付いて、それが風が吹こうが雨が降ろうがです、それをしっかりしがみ付いて進んでいかなければならない。
 そんなら進んでいくと言う事は、又どう言う事かと言う事であります。ただ合楽にね、合楽の信者として席をおいとるというだけではいけんのです。先日その猫の苗の偏に、けもの偏を頂いた。折角の喜びの苗が、そのケモノ偏のために猫になってしもうた。不浄に終わるような結果になってしもうた。そこのところを繰り返し繰り返しお互いしておることに気付かせて頂いた。
 それでもなおかつおかげを受けなければならんからと、お願いをさせて頂いておりましたら、神様が「お前でもおかげを受けておるではないか」と言う事を頂いたんです。そこで改めて自分というものを見直したところが、その人だけがケモノ偏ではない、厳密に言うたら自分の心の中に、ケモノ偏だらけである事にまた気がついた。なるほど私のようなケモノ偏だらけの者でも、んなら今日このようなおかげを受けておるのだから、んなら私より以下の者とは、先ずなかろうと思うのです、そのくらいな私なんです。
 もう皆さんのどの人とんなら比べてみても、私の方が劣るとしか、これは私自身思われないです。なるほど私のような者でも、この様なおかげを頂いておると言う事は、んなら何処に神様がよかとこがあって、私にこのようなおかげを下さるだろうかと思わせて頂いたら、松竹を頂きました。そしてつらつら私が思わせて頂くのに、私の様に言うならば、汚いというか鈍なというか、何にもでけない私がです、出来て来た事と言うならば、この松と竹の信心だけであったと言う言であります。
 松の信心というのは元気な心だと言う事です。豪気な心元気な心。竹の心というのは素直な心。そういわれてみるとんなら私のその松と竹に、神様が言うならば他の事は何にもでけんのだけれども、この事に免じて神様が最近言われる、おかばいを下さってもうケモノ偏だらけの私だけれども、そのケモノ偏も無いもののようにして、神様がおかげを下さる、神様がかぼうてくださる、悪いところは袖や袂に入れて下さって、ただ良いただ良いと言う言だけにして下さる。
 それはただ私が一途に、例えていうならばお参りさせて頂くと決めたらお参り偲ぶ。これはもうどんな事があっても、もう絶対のものでした。いろいろ出張に回りますと、出張先に宿屋に泊まる時に、前の晩にここの町では、金光様の教会はどこにあるかを、ちゃんと聞いて地図まで書いてもらって、朝早いからもう市内電車もないようなとこがありますから、そこまで歩いていかなん道のりを聞いて、その教会にお参りをさしてもらいました。こうと神様に誓った事、心に誓こうた事をです。
 もういい加減しないという、いうならば一途な心を、私は松の心だと言う風に思います。元気な心がはぁ今日はもう眠むうして、しるしかばってんと言う様な時もあるけれども、そこをね元気な心を奮い起こして、神様に向こうていくという信心。素直というのは、それこそこれはもう馬鹿ほどに、なるほど福岡の初代が馬鹿と阿呆で道を開けと、もう道が開けるはずたと思うですね、この馬鹿になるなら。
 神様が赤と言いよる白を赤と言われても、あぁほんに白でございますなぁと言うておる内に、白になって来るんだから不思議です。神様がもう今日からサイダーを飲むなと仰ったからです、もう私は5,6年サイダーを飲まないです。他のものはビールその代わりにビールなら良かろうと神様が仰った、ビール4,5本までぐらいはよかって頂いたばってん、まだ5本頂いた事はない。
 分らんです。なぜ神様サイダーを飲んじゃいかんのですか、コーラならよかサイダーあのビールならよかちゃ、どういう訳ですかとどういう訳ですかを聞いた事がない。今にサイダーを私が飲まんのは、どういう訳か、それこそ分らんです。金光様の信心がね、ただ理屈で分かるごたる信心なら、大した信心じゃないです。もう限りなく分らないところに出らせて頂くから偉大なんです。
 それを一歩ずつでも分かっていくと言う所に信心があるのです。生神というのですからとてもとてもねですけれどもです。それぞれの持っておる何か良いものがあるならばです、それをフルに出させてもらう。自分をいうなら厳密に見れば、それこそケモノ偏だらけの自分でもあろうけれども、神様が一途な松と竹の心を持ってするから、その松と竹の心に神様が免じて下さって。
 他の悪いところは無いもののようにしてです、亀甲の中に神という字が書いてあると言う様な、おかげお繰り合わせを下さる事が出来るのです。ですから私は合楽の神様はね、神様都々逸歌わせたもうと言う様な神様だと。けれどもここというところだけは、これだけはというものを、私はいよいよそれに徹していく信心をさせて頂いて、悪い所は見直し聞き直しして頂いて、神様にお取立て頂くような信心をさせて頂くと言う事。それには先ずここでは親先生任せにならなければならない。
 いうならば亀さんの背中にしがみ付いたら最後、もう外れんとどんな事があってもという、その親先生任せの信心をいよいよ身に付けていくと言う事。そこから竜宮遊戯だけでは心もとない。いつ忘れて玉手箱を開けるような事にならんとも限らんから、いよいよ極楽の世界から、もう一つ向こうの合楽の信心、合楽の世界を極めようと願う信心。私がおかげを受けて、それこそ信心の真を現させて貰うと言う事。神も喜び氏子も立ち行くような、世界に住まわせて頂く事を、願いとする信心。
 そういう信心を目指す限り、おかげを落とすような事も、いうならば玉手箱を開けるような事もないでしょう。この世でいうならケモノ偏だらけの私であっても、神様が生神としての認めて下さって、悪いとこは見直し聞き直し下さって、ただ良いところだけを一途に育てて下さっていくというのがです、私は生神。なるほどこの生神ならば、誰しも願う事も出来れば、目指す事も出来る、また自分の心次第では、精進する事も出来ると言う事でございます。
   どうぞ。